東郷麓の略歴
鶴ヶ丘城の麓に築かれた郷
斧淵村三ヶ郷の一つ小路郷(城内郷・谷ノ口郷)を中心に形成された
東郷麓の地頭仮屋は(地頭仮屋跡→外城第42郷校→旧東郷小学校→東郷製糸場→民家)と変遷し場所特定できない(教育委員会東郷教育課)
相良家武家門
現在はご高齢の夫婦がお住まい
写真撮影のお願いと少しだけお話しを聞かせて頂いたが、奥様が快くお話しして下さった
奥様が相良家 御当主は平佐北郷家家臣和仁家からの養子との事
こちらの武家門は薩摩藩特有の腕木門
「敷地内の自宅離れが寛政年代に作られたと聞いている」との事から、1700年代末期~1800年頃に作られた可能性も
薩摩川内市にもこんなに貴重な史跡が残っていることは案外知られていない
木脇家跡石垣
石垣の構造を見るに非常に立派な武家門が立っていたと思われる
入った直後に左右どちらかに折れる構造はよくある武家屋敷構造だが、一般的なのは下半分石垣・上半分を生垣等で作る物
こちらは上から下まで石垣で作られていたと思われる
鬱蒼としてしまっているが綺麗にすればとても立派な石垣が現れそう
木脇家武家門
こちらも木脇家武家門
恐らく縁戚ではあると思うがよくわからず
前出の2家もそうだが非常に広大な敷地を有している
下の写真の様な武家石垣跡も鶴ケ岡城域に複数見られるがせいぜい3~4家分程だろうか
安土桃山時代・宮之城島津家の領治
宮之城島津家の領治
渋谷東郷氏滅亡の後を受けて東郷を領したのは島津図書頭忠長
始祖尚久は相州島津家忠良(日新斉)の三子で第15代貴久の弟
鹿篭(枕崎市)を領していたが、その子忠長に至り、初め大隅国串良(肝属郡串良・東串良町)を領し、後東郷十か村を領し、さらいに慶長5年(1600年)伊佐郡宮之城に転封、宮之城島津家を興した
宮之城島津家の領域
東郷十か村(斧淵・田海・宍野・鳥丸・藤川・南瀬・山田・ニ渡・白男川・泊野)・七千二百十四石一升八合一勺六撮
伊集院竹山村(日置郡伊集院町)・三百石余
河辺田辺田村 千四四百石一升八合一勺六撮
川辺郡川辺町
長田村・七百石余
平山村・二十石余
日州飯野前田村(宮崎県西諸県郡えびの町)・二百石余
合計一万石
居城
天正十七年(1589年)二月忠長は東郷に移り新城を築いて治所とし、子忠倍には鶴が岡城(東郷城)本丸に居城させた
菩提寺
忠長が就封するや、渋谷東郷氏の菩提寺「重元寺」を「曇秀寺」と改称して菩提寺とした
「曇秀」の号は父尚久の法名よりとったもの
その後、子久元に至り再び重元寺に復した
日置島津家時代に天沢寺と改称