水引麓の略歴
水引城(別名:屏風城)麓に築かれた麓で近くの公民館には宮内麓と書かれている
水引城は屏風を立てたような崖であったので別名を屏風城とも
水引城の遺構は戦争の影響や区画整理などにより完全に消滅している
薩摩藩内の麓は、基本城跡のまさしく麓に築かれている場合がほとんどだが、水引麓は少し離れた場所に麓集落が形成されているのが珍しい
水引麓地頭館の碑
地頭館跡は現在公園となっており、近所の子供達の遊び場として活用されている
入り口には石柱門が残っている
宮内麓自治会館
昔からの地名が残っていると色んな事が推察できる
行政統廃合で地名が変わってしまうのは歴史がわからなくなるリスクを含む…
江戸時代は直轄地であり初めは高城郷の一部だったが、寛永6(1629)年に分かれ、宮内・大小路・五代・小倉・草道・網津の村からなる水引郷となった
地頭仮屋は宮内村にあり麓が形成された(即出写真)
出水筋(街道)が通過する郷であり、且つ大小路町・宮内町・五代町・川畑町・京泊浦・船間島の6つの浦浜があった
武家門
水引麓で確認できた武家門はこの1基のみだが、非常に立派な武家門
ご先祖は水引郷で上役などの中級武士を務めた家系なのだろうか
石垣もとても綺麗にされていて笠石も乗っている
水引麓で貴重な武家門なので頑張って残していってほしい
他には武家門は無いものの、立派な石柱門と低い石垣が残っている家もあった
恐らく元々武家門作りだったものを現代風にしている家も
石垣が残っているだけでも管理人は興奮してしまう…
武内神社
麓には郷士が日々信仰したであろう神社もある
武内神社(新田神社境外末社)
しっかり綺麗にされていて、地元の方々の日々の管理の良さがわかる
水引麓と西郷隆盛公
弘化4年(1847年)西郷吉兵衛、西郷吉之助(隆盛)と共に
水引郷五代村で油問屋を営んでいた「板垣与三次」の下へお金を借りに訪れています
その金額100両(現在の貨幣価値で1500万円~2000万円)
「川内川の水が干上がる事はあっても、板垣家の財産が干上がる事はない」
と言われていたほどの豪商だったそう
ちなみにこの「板垣家」
先祖は武田信玄の一族である「板垣駿河守の三男・信康」
天目山の戦い(1582年)で敗れ、薩摩に定住したという
薩摩には中央から下向してくる武士が数多くいるので
その辺を歩いている人間もあの有名な歴史上の人物の末裔かも?
場所
水引麓地頭館の地図