高城麓概略
現状
【武家門】0基
【武家門石垣】2~4家分程
成り立ち
【高城麓】麓村・麦之浦村・湯田村・西方村・城上村
【地頭館】妹背城下(慶長18年・1613年)
【郷士集落】高城麓・妹背馬場・本町馬場 ※慶長18年(1613年)外城となる
寛永6年(1629年)水引分離外城となる
【野町・浦町】野町・西方浦
【中世古城跡】妹背城・仕剣丸城・梅ヶ城
【武家】噯(あつかい)の記録が残る 上床氏 小田原氏 楠元氏(楠本氏) 橋口氏 など多い
参考)薩摩川内郷士史研究会発行「千台」より
地頭館
妹背城南、妹背城の登城口に向かう途中にある
現在は空き家の庭に石碑と当時のもの?らしき石垣が残るのみ
高来小学校の場所に地頭館があった時代もあるようだ
武家門関係跡
高城麓は武家門の残存無し
石垣は数家分のこっているものの、当時の物かどうかは不明
当時の物?な石柱門
他数家あり
地頭館址に向かう馬場
折れが確認でき、石垣も当時物?
高城本町址にも当時物の石垣が現存
高城麓と西郷隆盛
二代目石造眼鏡橋の妹背橋架橋に関わったのが、若かりし頃の西郷吉之助(後の隆盛翁)
設計は岩永三五郎 工事監督郡奉行は迫田太次右衛門、郡奉行座書役が西郷吉之助(当時18歳)
弘化三年(1846年)石造り眼鏡橋に造り替えられた
現在でも橋の近くに当時の石橋の親柱が残っている
約3年間西郷吉之助が下宿した宮園家には、西郷さんが使用したとされる手水鉢も残る
現在の妹背橋の橋梁付近に石橋時代の物らしき基礎跡?が残っている
眼鏡橋の基礎跡だとするとロマンを感じる
西郷殿も江戸に上る道中で高城麓を通る度にこの時のことを思い出したことだろう
浄土真宗本願寺派「光明坊」
鹿児島県薩摩川内市高城町にある浄土真宗本願寺派の「光明坊」
高城麓内にある。
四季折々で綺麗な季節感を楽しむことができる。
特に秋の紅葉が有名。
高城郷の武家
西ノ海嘉次郎生誕
高城町本町の高城川沿いには、第16代横綱「西ノ海嘉次郎」の生誕地があり、招聘墓が辛亥墓地にある
嘉永4年(1851年) 小薗武右衛門の長男として生まれ、明治9年22歳で東京力士初代高砂浦五郎の門弟となる。
31歳で大関、36歳で16代横綱となり、42歳で引退し井筒部屋の7代目親方となる。
身長176㎝ 体重127㎏
現在西ノ海嘉次郎生誕の地は民家となっている。
薩州島津家家臣
「高城郷由来記」によると
元禄八年(1695)五月十九日 曖役 上床仲右衛門 提出書面
「朝鮮の役後、最後の戦い(泗川陸戦・南海島付近の海戦)で功績のあった島津氏は五大老連署で感謝状を賜り、島津文書の中に「出水・高城二郡及び大隅・薩摩国等、惣都合五万石」と記されている。高城十林を故・上床主税・下村甚右衛が、命令を承り米蔵の出納を司ることになった。世間ではこれを代官という。そのあと大中公(島津貴久)は、昔のように外城を建てた。その際、楠本筑後を蒲生から呼び寄せて、上床主税とともに曖役を命じられた。二人はお互いに相談し、薩州家の旧臣で、高城にとどまって零落している多くの武士を取り立てることを願い出た。徳のある名君、島津貴久はこれを取り上げ、懇意の間柄の士族として田畑を与えた。」とある。
矛盾点
島津貴久公 没1571年
島津薩州家 断絶1593年
下記文書を考慮すると…
高城郡西方村(現薩摩川内市西方町)の橋口氏系図「橋口重住」の項に
「代々出水の島津家に仕う。文禄年中、重住は「島津忠永(忠辰)」に属して朝鮮に出兵す。その後、忠永が加藤清正に預けられし時、重住は浪人となり、高城郡に退去す。慶長四年、「島津義弘」に召し出され、高城の住士として、新規に奉公」とある。
このことから、島津貴久公ではなく島津義弘公ではないかと推察できる。
ちなみにこの橋口氏は桓武平氏の流れで、高城麓エリアにはこの士族の橋口氏が多い。
宮里・高江にも同族有。
場所
駐車場:高城神社に停めて、歩いて散策するのが良いだろう。
高城神社・高来小学校周辺が高城麓周辺になる。