木崎原の戦い
元亀3年(1572)日向国真幸院木崎原(宮崎県えびの市)において「伊東義祐」と「島津義弘」が激突した合戦。
島津軍300人 対 伊東軍3000人 の兵力差にも関わらず島津側の勝利となった事から「九州の桶狭間」とも呼ばれる。
しかし桶狭間とは異なり、島津軍は兵力の85%以上が討死。士分150人・雑兵107人・計257人(説)と参加した将兵の大半を失う。
伊東軍は重臣128人・士分122人・雑兵560人・計810人(説)を失うという壮絶な戦いとなった。
この合戦が日向伊東氏の内部崩壊につながったとされている。
この合戦には「相良義陽」も伊東軍と連合して参陣する予定だったが、義弘の謀略により撤退している。
「木崎原の戦い」は島津側の呼称
「覚頭(加久藤)合戦」は伊東側の呼称
※Wikipediaより
鳥越城跡
案内看板から鳥越城跡方面を望む。
止まれ看板の向こう側に見える小高い丘。
三角田
一見のどかな田園風景が広がる地。
この辺りで激戦が繰り広げられた。
六地蔵塔
島津軍伊東軍双方の戦死者を弔う為に義弘公の命により建立された。
島津義弘公歌碑
「いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の定まる風の 吹かぬ かぎりは」
池島神社
六地蔵近くにある。
義弘公を祭神とする加治木精矛神社より分祀した神社。
写真は撮り忘れ。
義弘公腰掛け石
義弘公腰掛石。
甲冑を着てこの高さに腰掛けるのはなかなか大変だと思われる。
腰掛け石横に生えていた杉の木。
樹齢約400年との事で江戸時代はじめの頃から生えていると思われる。
不思議な形をしていて、神秘的なオーラを放っていた。
首塚
こちらも撮り忘れてしまったのでストリートビューより首塚の写真。
現在は上の写真の様に伐採されて明るくなっています。
太刀洗川
首塚から道路を挟んで反対側にあり。
川の跡に石碑はあるものの、現在は川どころか水気すら無い。
石碑から道路側には排水口跡はあるが、埋もれかけている。
場所
木崎原古戦場跡から、鳥越城跡・太刀洗川跡、共に歩いて行けます。