粥餅田古戦場跡

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石碑

元亀三年(1572年)五月四日
木崎原の戦いで撤退した伊東軍は粥餅田で島津軍からの追撃を受けた。
その際、伊東氏家臣・日向国柚木崎城主・内山衆去川役人で槍の名主「柚ノ木崎丹後守」は引き返し、「島津兵庫頭」に一騎討を挑んだ。
丹後守が一撃を繰り出した瞬間、兵庫頭の馬が前脚を折った為、槍は外れ兵庫守に討ち取られた。
※諸説あり。詳しくはこちら

粥餅田

画面中央の林の中に説明板と石柱有。

上写真の反対方向少し上方からの眺め。

柚木崎丹後守正家墓

現在は一般の民家裏手、林の中にある。※一般宅なので詳細な場所は伏せます。
粥餅田古戦場跡からほど近い場所にあります。

400年以上経ても尚、しっかりと管理されており管理して下さっている方には感謝しかない。

ひっそりと、しっかり残っている。
若干斜めになっているのは、石塔の下から筍が生えてきている為。

説明石板。
裏には子孫の方々の名前が刻まれている。

元亀三年(1572年)五月四日都於郡城主伊東三位入道義祐は島津兵庫頭忠平(義弘)が領する真幸口を侵さんとし兵を進めて木﨑原に戦うも伊東に利なし時に伊東の将、高岡柚ノ木崎城主柚ノ木崎丹後守正家槍を揮って忠平を突きしが果さず遂に討死したり
日向纂記に言う丹後守は
日州第一の槍突なり髪を乱し袖印をかなぐりすて敵軍に紛れ入って兵庫頭を狙ひけるが粥持田と云う処にて出会ひ間近く成つてろ一槍と衝き懸る兵庫頭馬驚ひて前膝を折りければ目的はずれて兜の真向に衝きける其の間に義弘恩顧の者共馳塞り丹後守をば槍玉に上けにける と
また三国名勝図会は
丹後守一隊五六十に殿りして其状勇壮なり忠平公怒りて槍を揮って足を刺殺すと述べ丹後守が忠節を伝う
後の人白旗山野を圧して逃れ難し東将槍を捻って本陣を突く忠平公の命風前の灯火
東軍敗走して三山暗し身を挺して防戦す丹後の忠と詠じて忠節を讃う
嗚呼偉なるかな丹後守
我等末裔これが節義を偲び御霊を慰めんと此処に碑を建て以て子孫に伝えると共に累代祭祀を続けらるる橋谷家に対し深甚の謝意を表すものなり
石板より

※※柚木崎丹後守正家※※

場所

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