平佐焼
平佐焼は安永五年(1776年)、今井儀右衛門が有田から陶工を招いて
現在の阿久根市脇本に脇本窯を開いたことにはじまる。
脇本窯は数年で経営難に陥り廃窯となりますが、これを惜しんだ平佐北郷家家老「伊地知団右衛門」は平佐領主「北郷久陣」(ほんごうひさつら)の支持のもと、再び有田の陶工を呼び寄せ、天明(1780年代)のころ、階段状連房式登窯「北郷窯」を築かせ、天草から陶石を船で運び磁器の生産を開始しました。
製品には、白磁・染付・赤絵など日用品から美術品まで多彩な焼き物を生産する窯の一つとされるまでに成長し、薩摩焼史上最大級の規模を誇ったと言われています。
江戸末期に全盛期を迎えた平佐焼も、明治四年廃藩置県によって北郷家の援助が途絶えると徐々に衰退し、昭和十六年(1941年)の火入れを最後に惜しまれつつ廃窯となりました。※現地案内板転載
平佐焼窯跡
平佐窯は、平佐領主北郷家が天草や肥前より陶工を呼び寄せて築かせた磁器窯。
天明(1780年代)の頃に操業を開始し、碗や皿などの一般大衆向けの日用品から高価な美術品まで多種多様な焼物が精算されました。
平佐焼の原材料は、天草産の陶石と地元産の良質な粘土であり、陶石の加工には水車が利用されていました。
釉はイスノキの皮を焼いて作った灰を混ぜることで青味がかった色を帯び、平佐焼の特色のひとつとなっています。
天保年間には「向井与籐次」によって赤絵の技法が、慶応年間には青木宗十郎によって鼈甲焼の技法がもたらされました。
慶応三年(1867年)には、コンド・デ・モンブランの手によって、欧州向けの製陶技術が伝えられ、長崎を通じて欧州へ輸出されていきました。
こうして様々な技術を取り入れてきた平佐焼ですが、北郷家が廃藩置県によって家禄を失ったことをきっかけに徐々に衰退していき、昭和十二年(1937年)の向井勘兵衛の鼈甲焼が最後の窯入れとなりました。※現地案内板転載
こちらの窯跡は一般宅の敷地裏手(厳密には敷地内)にあるため、静かに見学する事をおすすめ。
窯の天井部分は崩落してしまっている。
流行り廃りのある事なので仕方ないのはわかっていても少し寂しい。
柚木崎家にて一時平佐焼を復活させようという話があったそうだが、有田から陶石の取り寄せや窯の復興など費用が掛かり過ぎる為に断念したそう…
そしてこの地にいる柚木崎家が島津義弘公と戦った柚木崎丹後守正家公の子孫達である。
平佐焼名工 柚木崎六兵衛
場所
マップのピンがさしているお宅の裏手。
駐車場は前に広場あり。