概要
【城名】堀越城
【支城】種里城、大浦城
【築城年代】文献初出・建武4(1337)年、改修・文禄3(1594)年
【築城主】津軽為信
【主な城主】津軽為信・津軽信枚
【現住所】青森県弘前市堀越柏田
堀越城は、弘前藩初代藩主である津軽為信が、最後の居城とした城。
為信が大浦城(弘前市五代)から居城を移した1594年(文禄3年)から、二代藩主信枚が高岡城(弘前城)へ居城を移すまでの約17年間津軽の中心として機能した。
※弘前市HPより
津軽為信と堀越城
文献上で「堀越」の名が現れるのは、南北朝時代の1337年(建武4年)のことで、「堀越に楯(館)を築く」と記されていますが、この「楯」の詳細は不明。
堀越が再び文献に現れるのは、16世紀後半、「南部右京亮」為信、後の津軽為信が、当時津軽を支配していた南部氏から独立を図る過程において表れる。
1731年(享保16年)、弘前藩によって編纂された「津軽一統志」によると、1571年(元亀2年)為信は堀越城から石川城主「石川(南部)高信」を奇襲し攻め落としたとされる。
その後、為信は大光寺城(平川市)や浅瀬石城(黒石市)などを攻略、津軽の支配を進め、1591年(文禄3年)、為信は大浦城から堀越城へと本拠を移す。
現在残る堀越城の遺構は、この移転時に為信が行った大改修のよって築かれたものと考えられている。
※現地説明板より
遺構
堀越城は、城の中心に城主の住む本丸があり、その周囲を家臣などが住む二之丸・三之丸・外構などの曲輪が取り囲む、求心的な構造を示すことが判明している。
また、本丸からは礎石建物、三之丸からは掘立柱建物などが確認されており、城内に多くの建物が立ち並んでいたこともわかっている。なお、二之丸ではたくさんの鍛冶炉が並んで見つかっていることから、城内には武士だけでなく鉄や銅の製品をつくる職人もいた事がわかっている。
※堀越城パンフレットより
外構・城道・外堀
堀越城三之丸にある展望所からの眺め。
手前の土塁から「中土塁」「外堀」「東西連絡路」「外構」の順。
写真に写っている中土塁と展望所がある中土塁とで二重掘となっている。
住宅街真ん中付近の白い家の向こうに石川城が若干見える。
虎口跡がたまらない…
展望所から虎口跡・本丸方面を望む。
これを見ると高岡城(弘前城)がいかに大規模に築城されたかが分かる。
城道
この城道は北側の外堀を渡る土橋、更に三之丸の南西の開口部(虎口)へとつながる事が確認されている。
道幅は2.4m前後、路面に円礫が敷かれ両側に側溝がある。この城道跡は、江戸時代に堀越城跡を記した文献には記載がなく、発掘調査でその存在が初めて確認された。
なおこの城道跡は、南の前川、そして堀越城下(現堀越集落)を通り、石川へと延びる街道(旧羽州街道)へと繋がっていたと考えられる。
※現地説明板より
外構から本丸を望む。
外堀
外堀は、二之丸と三之丸の周囲を巡る。場内で最も広い堀跡である。
特に、三之丸の南側では、30mを超える堀幅がある。
この外堀を渡り、三之丸南西の開口部(虎口)と、外構えの城道跡とを繋いでいるのが土橋跡である。
この土橋跡は、江戸時代に堀越城跡を記した文献に記載がなく、発掘調査でその存在が初めて確認された。
また外構ではこの土塁跡につながる、石敷きの城道跡が確認されている。
整備では、土塁跡とともに、外堀を渡る土橋跡、外構を南北に伸びる城道跡と側溝を整備している。
※現地説明板より
内堀
本丸東門跡正面の内堀底面からは、内堀に架かる木橋と考えられる柱穴跡が確認された。
柱穴跡は8基確認され、2列、4対にならんでおり、軸線は本丸御殿広間跡や東門跡などの本丸の建物群と一致する。また、幅は4mで、櫓門と想定される東門中央建物の門扉部分と考えられる、1対の礎石跡の幅と一致している。
この木橋の柱穴跡の上からは、1611年(慶長11年)の弘前城への移転の際に廃棄されたと考えられる、大量の木製品などが出土している。
二之丸
二之丸は堀越城の北西側に位置している。
平面形は、南北120m、南西40~50m前後の、南北に長い弓なりの長方形をしている。
逆コの字状の土塁により、北・西・南の三方が取り囲まれており、さらにその外側が外堀で囲まれている。西側中央に位置する虎口(出入口)で小丸と、南東側の本丸とは土橋で繋がっている。
整備前には、土塁は南西側の一部を除いて高さ1m程度まで削られていた他、西側の外堀は完全に埋められていた。
整備で、土塁は残存する基底部の幅やのり面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3m規模で復元している。
また外堀は主に明治時代の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元した。
土塁や外堀は、津軽為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した1594年(文禄3年)に形成されたものと考えられており、この時期の遺構として平場からは、掘立柱建物跡、竪穴建物跡、焼土遺構、柱列跡などが確認されている。
平場の南側からは南北8間、東西3間の掘立柱建物跡が確認されているほか、中央では数棟の掘立柱建物跡が存在したものと想定されている。北側では20基前後の鍛冶炉と想定される焼土遺構や、竪穴建物跡1棟などが確認されている。
なお、曲輪の名称である「二之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称だが、城として機能していた当時にどのように呼称されていたかは定かではない。
※現地説明板より
二之丸虎口
二之丸虎口は二之丸の西端中央に位置し、西側に位置する小丸と土橋でつながっている。
調査により、現在の園路の約1.5m下から、城に伴う時期の土橋が確認された。この土橋は約3mで、南側で犬走りにつながる。犬走りは土塁外側に作られたはば約4mの通路で、南へ延びたのち土塁に突き当り、長さ約10m、幅約5mの広場状に広がる。犬走り南側の土塁は屈曲しており、広場側の角が約1.8mの幅で開口している。後世の掘削などにより痕跡は明確ではないが、門などが設置されていた可能性もある。
外堀は廃城時に大量の木製品が廃棄されたのち埋没が進んだ。
整備では埋土を除去し、復元を行ったが、宅地が近接している西側は、本来の幅より狭い形状で整備している。
※現地説明板より
本丸
本丸は堀越城の中央やや西側に位置。
平面形は五角形の形をしており、高さ約3mの土塁と、幅15~20mの内堀に囲まれている。
東西両側に出入口(虎口)があり、門の跡が確認されている。
本丸東門は3棟の建物で構成された、幅32.5mの規模を有する大型の建物である。内堀を隔てた三之丸との間には木橋が架かっていた。
本丸西門は幅2.4mで、一対の石の基礎(礎石)と二対の柱穴で構成されている。二之丸との間には土橋が架かっていた。
本丸の北側からは、城内で最も大きな建物跡が確認されている。「広間」と称されるこの建物は、城主が家臣や使者と謁見する公的な場であり、城内で最も格式高い建物であったと想定されている。なお、広間南側からは庭と想定される痕跡も確認されている。
本丸内には、広間の他にも、城主の私的な(奥向きの)場である「居間」「台所」「長局(大奥)」などの建物が建ち並び、本丸御殿を形成していたと考えられているが、これまでの発掘調査で全容が明らかとなったのは広間のみである。奥向きの建物群は、本丸の南西側から南側(熊野宮境内)に位置していたものと考えられる。
本丸御殿広間
本丸御殿広間跡は堀越城の中心的な建物である。
城内で最も大きく、城主の公的な謁見の間として最高の格式を有する建物だった。この建物の主屋は、東西20m(10間)、南北14m(7間)の規模を有し、北側と東側に付属屋(下屋)が取り付く。
基礎には直径0.6m前後の川原石(礎石)が使われている。
※現地説明板より
本丸東門
本丸東門跡は南北に並ぶ3棟の礎石建物で構成されており、全体で南北32.5mの規模となる。
中央建物は南北10.3m(3間)、東西2.7m(1間)、2階建ての櫓門であったと考えられる。1階中央に幅4mの門扉が取り付き、門内部には長さ10.3mの長大な梁が架かっていた。礎石も1mを超える大きな石が使用されている。なお、外側の堀からは木橋跡、内側からは番塀(目隠し塀)が確認されている。
南建物は南北12.9m(6間)、東西6.4m(3間)の1階建で、倉庫などに使用されたようだ。北建物は6m(3間)四方の建物で、内部は床張りとなる。階数が1階建または2階建のいずれとなるかは、はっきりしていないが、1階部分は門番の詰め所だったようだ。
※現地説明板より