峰ヶ城(峯ヶ城)

山城

概要

【城名】峰ヶ城(峯ヶ城・峰山城・高江城)
【支城】検見ヶ城・城山城(東之城?)・白石ヶ城・西之城・大峯元城
【築城年代】不詳
【築城主】不詳
【主な城主】高江氏・山田式部三郎忠房(島津方)・入来院氏
【現住所】鹿児島県薩摩川内市高江町

峰ヶ城は峰山小学校敷地から後方の共同墓地一体にあった。
築城は諸説あり定かではない。
戦乱の南北朝時代、川内地方では川南を支配する島津氏五代「島津貞久」(1269~1363)が、峰ヶ城と碇山城(川内)を本拠として、川北(川内川北側地域(高城・水引・大小路・中郷・東郷等))を支配地域とする渋谷氏一族と対峙し、陣取り合戦を繰り広げていた。
六代「島津師久」(1325~1376)は薩摩の守護職となり、碇山城の拠り、峰ヶ城は「山田式部三郎忠房」に守らせた。
応安五年(1372)六月、渋谷氏一族の入来院六代「入来院弾正重門」は峰ヶ城を攻めたが、重門は城から投下された石に当たって戦死した。これを見た同族の祁答院氏・東郷氏・高城氏等の軍勢が来援し、峰ヶ城城主「山田式部三郎忠房」や守護代酒匂氏ら多数戦死し、落城した。
その後、幾たびの変遷の後、元亀元年(1570)「入来院重嗣」は、三州統一(薩摩・大隅・日向)した、島津氏十六代「島津義久」へ、峰ヶ城を隈之城・平佐城・百次城・碇山城と共に献上した。
高江町には他に峰ヶ城の支城として白石ヶ城(しとっがじょ)・城山城(東之城・西之城)・検見ヶ城(けんみがじょう)・大峯元城があったが、江戸時代初期(1615)徳川幕府の一国一城令により全て廃城となった。
その跡地に峯山松嶺寺(しょうれいじ)(真言宗)が建立されたが、明治2年(1869)明治新政府の廃仏毀釈令により、同じ高江町の弥陀山長崎寺(曹洞宗)及び高月寺(浄土真宗)と共に廃寺となった。
廃寺となった同年峯山松嶺寺の跡に、松嶺寺の建築材を用いて村立手習所が建設され、明治5年(1872)には外城第三十六郷校として峰山小学校が誕生した。
※現地説明板より

遺構

峰ヶ城の裏手、川岸に面している側
竹藪の中に城の遺構が残っているのか…

場所:高江共同墓地北側(通称「鵜の瀬」急斜面上方で、孟宗竹に覆われており未確認)(峰ヶ城川岸側)
由来:入来院氏ゆかりの磨崖ではないかと言われている。
   応永5年(1398)「入来院重門」が戦死した場所と伝わる付近にあると思われる。
その他:所在は確認できないが、重門の墓が「樗木どん」の屋敷にあったとの言い伝えがある。
    磨崖に描かれた不動王・梵字が入来院氏ゆかりの「倉野磨崖仏」及び「久住磨崖仏」と共通しているとのこと。

峰ヶ城本丸

峰ヶ城本丸からの眺め。
高江三千石が少しだけ見え、寄田野牧方面や山々が良い眺めでしばらく見ていられるほど綺麗。
現在は高江共同墓地として、高江郷武士達の末裔が静かに眠っている。
城らしい遺構は残っていないが、峰山小学校から高江共同墓地に上がってくる道が少しそれっぽい雰囲気を残している。

神社

護国神社

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