高江麓概略
・現状
【武家門】1基
【武家門石垣】4~6家程
【地頭館】峰ヶ城麓(峰山小学校)高江麓は峰ヶ城城下に築かれた麓
【高江麓】
白浜堤防沿いに四十八戸の武家屋敷があったが、弘化二年~三年頃の川内川氾濫・堤防決壊の為、大方の士族は今の内場・峰下方面に転居し武家屋敷群が構成された。
・高江麓(高江郷)の武家
屋号「勘場」(藩の勘定方/八間川河口 洲鼻)有馬家
屋号「倉元」(藩の米倉/お寺の下)家村家
倉屋敷 青崎家
新屋敷 知識家
他 有馬家、内田家、樗木(おおてき)家、木元家、鮫島家、日高家等があり、「高江三千石」と言われる米や、藩営「寄田野牧」の管理を行っていた。
「寄田野牧」では毎春二才駒をおおよそ三百頭捕獲するため、馬追いには川内八郷から多くの勢子が動員され、「馬追いは高江郷士に従うべし」という藩の布令のもと、馬の捕獲作戦は高江郷士が仕切っていた。
「寄田野牧」は確認されるだけでも、五百年続いたことが判る。
また、武家屋敷の周りには内場馬場を中心に、商いの家屋が立ち並び川内川の川向うの小倉からも、渡し舟で買い物や床屋に来ており、大変賑わっていた。
現在も武家屋敷の面影を残し、木造の門構え、玉石の塀、石造りの蔵、広い庭園、立派な生垣、古木の庭木など、往時をしのぶ事が出来るが、貴重の襖絵、額、甲冑、重箱、古文書なども残っている。
※現地掲示板より
武家門
高江麓地区で唯一残っている武家門
立派な武家門
江戸時代のものだろうか?
石垣もしっかり残っており、高江麓の象徴としてこのまま少しでも長く保存してほしい。
石垣
武家屋敷群だけあり、多くの石垣が残っており往時の風景を残している。
江之口橋
江戸時代の高江麓は川内川の氾濫で度々洪水の被害を受けていた。
薩摩藩は弘化五年(1848)4月から、この八間川の治水工事に取り掛かる。
江之口橋は、この工事の一環で嘉永二年(1849)八月、肥後の石工・「岩永三五郎」によって架設された。
工事の詳細は欄干付近の水神碑に記録されている。
「岩永三五郎」は甲突川五石橋の架設など薩摩藩内で多くの工事を手掛け、江之口橋架設を最後に、肥後に帰ったと言われています。
薩摩藩への最期の御奉公に惜別の想いを込めて造ったものと言われている。
薩摩川内市内では岩永三五郎が手掛けた橋の中で、現存するのは江之口橋のみで貴重な文化財となっている。
水神碑は文久元年(1861)
用水路石橋
仮屋橋の横にある石造りの用水路
当時はこの石橋で田んぼに水を引いていたのだろう。
ただの用水路とは思えないくらいしっかりした造りをしている。
その他の見所
南方神社
県無形文化財指定の「太郎太郎踊り」が有名
高月寺跡
宗派は曹洞宗、開基は花屋芳和尚。
中興は無■辛公拒雲禅師。
創建不明。
宝篋印塔の残欠相輪の 中に入来院氏のものと思われるものあり。
天文八年(1539)入来院氏が高江所領時の一時祈願所となったものか。
他に笠塔婆、無縫塔、地蔵塔。
宝塔台石に応永三〇(1423)永生三年(1506)
板碑に寛文四年(1664)
五輪塔に寛文十二年(1672)
その他
・長崎寺跡
・阿弥陀如来,観音菩薩像,勢至菩薩立像
・長崎堤防
・小野神社
・日枝神社
※薩摩川内郷士史研究会「千台」第47号より