高城神社

神社

神社名:高城神社
御祭神:高城備前守重雄父子(高城備前神重雄父子三柱) 世々の領主高城氏一同
    素戔鳴命 諏訪大明神 中山権現 熊野権現 天之御中主命
創建:慶長十一年九月九日
例祭日:九月十五日太郎踊り
旧社格:村社
鎮座地:〒895-0211 薩摩川内市高城町1400

神社について

高城神社は、慶長十一(1606)年九月九日に創建されました。
島津直轄の高城郷の妹背城城主、高城備前守重雄父子と世々の領主高城氏一同の霊が祀られています。特に重雄は、兵道を能くし、民心の安定につとめ、村民に深く崇敬されていたため、没後、託宣があり「邑人相議ありてこの社を建て、重雄父子三柱の霊を祭祀す」と伝えられています。神社の建立にあたり、重雄の童子が高城川の淵で死去したのを悼んで建てられていた「駒之宮」と、信濃の国の諏訪神社を勧請して永正十四(1517)年に建てられた「諏訪社」とを合祀したため、初めは「高城三社権現社」と称せられていたとのこと。村社として親しまれ、いつしか「高城神社」と呼ばれるようになったものと思われます。特に水難除けの神社として今も人々の尊崇を集めています。
例祭は、高城郷の総菩提寺であった信興寺の祭日にならって七月十日行われていたとのことですが、「昭和」のころは「十日踊り」の名で、九月十日に太鼓踊り、虚無僧踊り、兵六の芝居などが奉納されていましたが、現在では九月第二日曜日に行われています。
※現地「神社の由緒」より

高城秋月(高城重兼)

高城秋月は高城が生んだ偉大な画家。渋谷高城氏系図によれば、第十一代「高城重頼」の次男、重兼(雅号高城秋月)として十五世紀後半から十六世紀前半の室町時代に活躍しました。その生い立ちや生没年など、伝記についても不明な部分の多い人物です。
もともと武士であった重兼(秋月)は、周防(山口県)で画房を営んでいた画僧で、水墨画家として名高い「雪舟等楊」(1420~1506)の門をたたきました。たくさんいた雪舟の弟子の中でも秋月の画才は卓越していたと伝えられます。
その後秋月は、応仁元年(1467)に遣明船で中国「明国」に渡って水墨画の技術を磨きました。明応元年(1492)薩摩の第十六代「島津忠昌」(第十一代では?)に招かれて、当時の薩摩国内で門弟に雪舟系水彩画を広めました。これが鹿児島の絵画史の始まりといわれます。
秋月は特に人物画が得意であったと伝えられます。現在確認される作品は全国的にみても極めて少なく、その研究はまだこれからと言えます。
※現地説明板より

タイトルとURLをコピーしました