神社名:兼喜神社
御祭神:北郷常陸介相久神(ほんごうひたちのすけすけひさ)
創建:天正九年(1581)八月二十九日
例祭日:十月三十日
旧社格:村社
鎮座地:〒885-0083 都城市都島町219番地
指定:県指定有形文化財
神社由緒
祭神は都城領主十代「北郷時久」の長子「北郷相久」である。
天正七年(1579)「北郷相久」は父「北郷時久」より疑われ、安永金石城(市内庄内町)にて自刃したが、後に北郷時久は北郷相久の霊を崇め祀る為に若宮八幡を創建した(天正九年)と言われる。
そして文禄四年(1595)の北郷家の宮之城(鹿児島県宮之城町)への移封で社殿も彼の地に遷されるが、慶長五年(1600)の北郷家の都城への復領に従い、旧地に遷座された。神名は
霊八幡(1608)⇒兼喜明神(1656)⇒兼喜大明神(1682)と改号され、
また享保十一年(1726)には吉田家より正一位の神階を授かり、今日にいたった。
本神社は、宝殿・舞殿・拝殿・御供所で構成されていたが、天明八年(1788)に、宝殿・舞殿・拝殿(現社殿)に改築された。
特に宝殿は、旧薩摩藩独自の社寺彫刻手法(向拝柱の雲龍彫刻など)を取り入れた遺構であり、現代への社寺建築技術の移行過程を知る上で歴史的価値の高い建物である。
※現地説明板より
石塔や石垣・石橋など当時の遺構が多く残っている
彫刻などの作りが薩摩藩に多い形態
祭神「北郷相久」
天文二十三年(1554)生まれ。
島津氏の有力氏族である北郷氏の嫡男として、父北郷時久に従い、天正元年(1573)の肝付氏との戦いや天正六年(1578)の耳川の戦いに従軍し功績をあげた。
また島津義弘の娘である御屋地と結婚し、北郷氏の時期当主と目されていた。
しかし、天正9年(1581年)父と不和になり廃嫡され、安永金石城において切腹した。なお、天正7年(1579年)という説も有力である。
不和となった原因ははっきりしないが、都城島津氏の記録である『庄内地理誌』は、相久が戦場において卑怯な振る舞いをとった家臣を諌めたところ逆恨みされ、相久が当主になると自分の立場が悪くなると考えたこの家臣が、相久に叛意があると時久に讒言し、これを信じた時久が、相久の居城である安永金石城を兵で包囲したので、相久は自分は無実であるが父に弓を引くことはできないとして自刃したと伝えている。また、葬儀の際、相久の乳母・乙守氏は自分の両乳房を切り取り、相久に捧げて殉死した。墓は都城市の竜泉寺跡に現存している。
なお、妻の御屋地は、安永金石城が包囲される前に脱出し、島津義弘の元へ帰され、後に豊州島津家の島津朝久と再婚した。
※「系図コネクション」様より転載
場所
駐車場:鳥居横の社務所?駐車場
※夏場は蚊が非常に多いので虫よけ必須