正一位高麗稲荷神社(島津義弘居館跡)
島津義弘公が文禄4年(1595年)に栗野松尾城から帖佐のこの地へ移り、慶長11年(1606年)平松に移るまでこの地に住んだ。
その後、この地の館には「島津豊後守久賀」「御屋地様(島津義弘長女)」「島津忠広」等が住んだという。
毎年この義弘公が居住していた地をスタートする。
この日は早朝から10月下旬とは思えないほど暑く先が思いやられた…
場所
後藤塚(山路後藤兵衛種清 墓)
山路後藤兵衛は、島津義弘公の亡骸が加治木を出発する元和五年(1619年)8月16日に、実窓寺磧で殉死することを約束した八人の中の一人。
その日、帖佐の家からこの地まで来たとき義弘公の亡骸がすでに出立し、七人が切腹したと聞いたので、それでは自分はここで切腹しようとまわりにいた人に傍らの石を指して、
「これを墓石にしてくれ。先の世で主君や同志に追い付く事ができたら、この石が三つに割れるだろう」と言い残して切腹しました。
その後、墓石は後藤兵衛の言った通り三つに割れている。
※現地解説板より
場所
実窓寺磧
島津義弘公は元和五年(1619年)七月二十一日、加治木屋形で八十五年の生涯を終えました。
この時、初代薩摩藩主「島津家久(忠恒)」は殉死を禁じましたが、義弘公に深い恩義を感じていた家臣十三名が密かに切腹の誓詞を交わし殉死しました。
折田和泉 入枝佐五右衛門尉 色紙仲兵衛尉 木脇刑部左衛門尉 新納式部少輔 池田六左衛門尉 藺牟田縫尉助 山路後藤兵衛尉 原蔵人 坂元番左衛門尉 椎原与右衛門尉 藤井久助 桐野治部左衛門尉
ここ実窓寺磧は、義弘公の遺骸が鹿児島福昌寺へ向けて加治木を出発する八月十六日に、家臣七人(赤マーカー)が切腹自刃した場所です。
当時、この事跡を記念する松が植えられましたが、長い年月の間に枯れたため、加治木の諸士はこの旧跡がなくなることを憂えて、安永五年(1776年)に石碑を建立しました。また、加治木島津家第六代「島津久徴」は天明五年(1785年)に石燈籠を建て、毎夜明かりを灯しました。明治四十四年(1911年)には、この石碑・石燈籠が荒廃していた為、稲垣重節らが中心となり修築の為の寄付金が集められ、敷地の拡張と修理が行われました。昭和五十四年(1979年)に木田本通線が開通し、現状に至っています。
なお殉死者のうち、加治木在住の折田和泉と木脇刑部左衛門尉は椿窓寺墓地、入枝佐五右衛門尉は吉祥寺墓地に葬られています。
※現地解説板より
場所
加治木島津家屋形跡(加治木護國神社)
島津義弘公がこの地を城地に選び、帖佐平松から移り住むのは、慶長十二年(1607年)のことである。
この城は高い石垣や天守閣を持たず、屋形造りの建物群で構成されている。空堀や城壁をめぐらし城域を区画し、家臣の屋敷を周辺に配置し整然とした縄張りで現在の街形態の原形がこの時造られた。
城中には「東の丸」・「中の丸」・「西の丸」の御殿があり、「東の丸」は現在の高校の敷地で義弘公の居館といわれている。義弘公が没すると薩摩藩初代藩主で島津家十八代「島津家久(忠恒)」がこの地に住むことになり、別館を新たに今の小学校の地に築造し、これを「西の丸」(中納言様御殿)と呼んだ。
御対面所は、加治木島津九代「島津久長」が安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物である。明治になってから第七郷校・仮県庁・郡役所・町役場として使用され、昭和二十年の戦災で焼失した。
※現地解説板より
以前「紙鎧つくりワークショップ」に参加してくれた歴史大好き兄弟と合流し共に精矛神社を目指します。
暑さにも負けず元気いっぱい!
場所
精矛神社
精矛神社宮司は加治木島津家御当主。
公式HPはコチラ。
そして今年の大将・祭文奉納は姶良市を中心に戦国島津関連のイベント企画等を行っている
しまづくめ「花見酒」氏(前列中央)
不定期開催歴史駄弁会の酒宴にて、半ば冗談でお願いしたら快く引き受けてくれました!
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
本当にありがとうございました!
来年からは甲冑隊として毎年参加してもらおうかな…(笑)