穆佐城概要
【城名】穆佐城(六笠城・高城とも)
【支城】白糸城・倉岡城
【築城年代】元弘年間(1331年~1334年)
【築城主】足利尊氏
【主な城主】日向伊東氏・畠山氏・島津氏
【現住所】宮崎県宮崎市高岡町小山田大字穆佐
【指定】国指定史跡
・穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、南北朝時代の建武二年(1335年)。大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏の所領(後、尊氏の室である赤橋氏の所領)となると、南北朝動乱に激しく巻き込まれました。攻防を繰り広げたのが土持氏・伊東氏・肝付氏など。その中でも日向国守護「畠山直顕(ただあき)」は、穆佐城を拠点として、大隅国(現鹿児島県)までその勢力を広げました。
その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津氏と伊東氏との争いへと引き継がれていきました。応永十年(1403年)に穆佐城入りした「島津久豊」(第八代島津家当主)は、穆佐との関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子「島津忠国」(第九代島津家当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺蹟が残っています。
文安二年(1445年)から約130年余の間、伊東氏による支配が続きますが、天正五年(1577年)再び島津氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外四ヶ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓への居住がはじまると、その役割を終え歴史の舞台から姿を消しました。
穆佐城は、山の自然の地形を上手く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
このように、城跡として貴重な歴史的遺産である穆佐城跡を後世に残す為、今後保存のための整備を実施し、歴史や環境を活かした公園づくりを目指していきます。 宮崎市教育委員会
※現地説明板より

現地にある穆佐城縄張図。
図を見て分かる通り非常に大きな山城であったことが判る。
本記事では上記縄張図の
A~D地区及び割り当てられた数字で紹介する。
遺構
穆佐稲荷神社



穆佐城跡ガイダンス施設(旧穆佐小)の駐車場に車を停め、ガイドさんの案内により稲荷神社へ。
穆佐稲荷神社は、応永年間(1394~1427)に島津家八代当主「島津久豊」によって勧請された神社。
※現地説明板より
階段の石段等が時代を感じさせる。
今回は鳥居の前からのお詣り。
穆佐護国神社

写真左の鳥居が護国神社の鳥居。
まだ入ったばっかりだが、小規模な曲輪が至る所に配置されている。
地層


閑話休題
護国神社横を上がっていく道中にこんな石がゴロゴロしている。
ガイドさんに質問され
「丸いから川から石を運んできた?」
と答えたが間違うようで、
ガイドさんによるとこれは
青島鬼の洗濯岩等で有名な
中新世後期(約700万年前位)に海中で出来た
水成岩(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)だそうだ。※宮崎県HPより
地層が土の下にある影響で湧き水が非常に豊富、
それもここを拠点にした理由の一つだろう。
しかし、湧き水の影響で土の流出も問題になっているのだそう。
地質学は詳しくいないのでいい勉強になった。
A地区曲輪群


A地区曲輪群の堀切。
こちらはあまり深さはないものの曲輪からすれば数メートル低く攻撃は容易い印象。



縄張図1からの眺め。
非常に眺めがよく敵の軍勢が攻めてきても一目瞭然。
写真中央下方に縄張図28がある。


宮崎城・倉岡城方面。
穆佐城は木城町の新納院高城、都城市の三股院高城と並び、日向三高城と称されました。また、穆佐城は陸運(都城盆地~田野~穆佐)と水運(大淀川)の合流地点でした。その為、南北朝期の穆佐城は木城町の新納院高城、都城市の三股院高城と並び、日向三高城と称されました。また、穆佐城は陸運(都城盆地~田野~穆佐)と水運(大淀川)の合流地点でした。その為、南北朝期の「畠山直顕」は、当面の敵が都城盆地の勢力であった為、穆佐城を居城としました。その後、室町期には島津氏、伊東氏という南九州の二大勢力争奪の舞台となります。穆佐城は日向戦乱の中心とも言える重要な城であったことがわかります。
※現地解説板より
B地区曲輪群

A地区・B地区間の空堀は他の空堀に比べると非常に浅く防御性の低い高さになっている。
ガイドさんによると発掘調査では3m程度掘っても何も出なかったそうだ。

縄張図A地区3の曲輪斜面。
写真をみて分かる通り崩れている。
つまり曲輪3(恐らく1も)の斜面が年月を経て、
崩れ堀切内に土砂が流れ込むことで徐々に浅くなっていたと推定されているそうだ。
シラス台地の弱点…
南九州に多い山城だが、こやって崩れ原型を留めていないであろう山城は非常に多い。
島津忠国誕生杉(B地区:坪之城(二之丸))



第八代島津家当主「島津久豊」は、応永十年(1403年)に穆佐城に入り、伊東氏の加江田城を攻め、池尻城・白糸城・細江城を築きました。同年、「伊東祐安」の娘、寿山夫人との間に、後の第九代島津家当主「島津忠国」が穆佐城二ノ丸(坪之城)で生まれています。
この時、記念に植えられた二本の杉が誕生杉で、「御年比較(おとしくらべ)の杉」とも言われていました。しかし、その杉も、明治七年(1874年)に失火の為消失してしまいました。現在の杉は二代目のもので、本町小山田の吉野盛幸氏が明治二十年(1887年)頃植えられたものです。
三国名勝図会に
「両株の間相隔たること三尺許りにして、根幹支葉甚だ巨大繁茂し、其枝垂れて地に着き、値を結び、復幹を生じて、長大なり、故に此樹、唯両株といへども、若干本の如く、上は高くそびゆること数十丈横に枝葉の覆ふこと一段許り、その繁茂の状態凡ならず、是を望める輩、問はずして神木たるをしるべし」
とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかがわかります。
敷地内には貞享五年(1688年)、穆佐地頭・曖役寄進の石灯籠が建っています。
※現地解説板より

三国名勝図会より島津忠国誕生杉
B地区:穆佐城主郭(本丸)

郭の境目が見て取れる。
当時は木柵があったのだろうか。

↑B地区19の郭から20,21方向。

18の郭を左手に見ながら進んでいく。
奥が13の郭。




↑B地区8主郭奥に高土塁

主郭空堀側の高土塁。
写真では分かり辛いが、1m40㎝程度の高さがある。
当時はもっと高かったはず。
当時B地区主郭以外には下級家臣、C地区23・24の郭には上級家臣が居住しており、C地区からの弓等が届かない様に堀を深く広く、土塁を高くしていたそうだ。
※ガイドさんよりご説明頂きました。



主郭高土塁の上からC地区を見ると赤いコーンがある。
ちょっと見辛いが主郭より若干低くなっているのが判る。
上級家臣の謀反(リスク)対策がしっかり行われていたことが伺える。
今回時間が無く、A地区曲輪群とB地区の主郭をメインに見学したが、更にC地区D地区があり非常に大規模な山城であったことが判った。
自戒はC地区D地区も余すことなく見学したい。
山城好きは是非行ってほしい名山城!
場所(穆佐城ガイダンス施設)
駐車場:ガイダンス施設に有。停めてから徒歩1分程度
・ガイダンス施設のボランティアガイドさんが無料で案内してくれます。迷うことなくスムーズに穆佐城見学できるのでかなりオススメ!なるべく歩きやすい服装と靴で行く方が安全です!
【参考資料】
・日本城郭大系 第16巻
・三国名勝図会 : 60巻 19(巻之55-57)
・現地説明板
・現地説明資料