阿蘇 鉄矢 概要
【名前】
阿蘇 矢次右衛門 政辰(通称「鉄矢」)
【生誕】
1801年 8月12日
【父】
阿蘇 政直 ※阿蘇鉄矢は二男
【先祖】
肥後国阿蘇神社大宮司「阿蘇家」
【出身】
川内平佐郷
経緯は不明だが先祖が肥後国から都城に移り、その後北郷家に仕え文禄頃平佐へ居住。
【主君】
島津本宗家・平佐北郷家
【役】
薩摩藩御用大工(天保六年:1835年)
薩摩藩大工頭
薩摩藩奉行頭
【阿蘇鉄矢主な業績】
「川内」
・向田川内川太平橋(初代)(明治八年:1875年)
⇒明治十三年西南の役で焼け落ちた太平橋を修築
・隈之城仏生橋
・高城高城川妹背橋
・高江八間川堤防
・高江八間川江之口橋(嘉永元年,二年:1848,49年)
・平佐白和橋
・新田八幡宮造営(嘉永元年,二年:1848,49年)
・天辰郷三堂川石橋(安政七年:1860年)
「鹿児島」
・鹿児島上町海岸「阿蘇橋」(アソドン橋)
大舟の出入りに対応する為の中央開閉式の橋があったという。
・鹿児島甲突川玉江橋
・鹿児島甲突川新上橋
・鹿児島甲突川西田橋
・鹿児島甲突川高麗橋
・鹿児島甲突川武之橋
・鹿児島稲荷川永安橋
「蒲生」
・蒲生八幡神社
「指宿」
・揖宿神社
「京都」
・京都御所造営(嘉永七年:1855年)
「江戸」
・高輪薩摩藩邸(嘉永七年,安政元年:1854,55年)
阿蘇鉄矢の生涯
幼少の頃より工芸に興味をもち小鳥籠などを作っては大人を驚嘆させたという。
廿歳(20歳)になると鹿児島城下にて数々の名匠の元で腕を磨く。
「調所広郷」らの天保の改革で土建工事の進捗を図る為、天保六年「薩摩藩御用大工」になり、まもなく藩の大工頭となる。
天保十年~天保十一年「岩永三五郎」を招聘する為、「調所広郷」「海老原清熙」の命を受け「阿蘇鉄矢」が事を伝えに出向いたと言われている。
肥後藩の岩永三五郎にとって薩摩は異国の地であることや、岩永三五郎は小数にも弱く計算測量は阿蘇鉄矢が補佐していたことから、かなり頼りになる存在であったことは間違いないであろう。
岩永三五郎は高江郷江ノ口橋を最後に肥後八代に戻るが、阿蘇鉄矢は同時期に新田八幡宮の造営に携わっている。
安政大地震(安政元年:1854年)では、江戸薩摩高輪藩邸の修復を他藩に先駆けて完了、その技量は江戸で評判になったという。
この評判により、水戸藩の仲介で幕府より京都御所の造営工事を委嘱されることになる。(49歳)
安政五年(58歳)鹿児島に戻り、安政七年天辰郷三堂川石橋に携わる(60歳)が、この後大工頭の第一線を引退したものと思われる。
明治七年(69歳)、県令「大山綱良」より川内川に架橋(太平橋)の命令が下り、翌明治八年竣工(70歳)。
明治十年西南の役の際、焼き落されたが明治十三年(75歳)阿蘇鉄矢の指揮により修理されている。
西南の役の戦禍により、鹿児島の上町若小路の邸を焼かれ、郷里平佐に帰り(76歳)明治十九年十月五日、85歳で死去。
昭和三年十一月十日、昭和天皇即位の大礼に当たり阿蘇鉄矢の生前の功を賞して、従五位に叙される。
阿蘇 鉄矢頌徳碑
薩摩川内市寺山に阿蘇鉄矢頌徳碑がある。
阿蘇鉄矢氏の功績を讃え川内を見渡せる場所に建てたと思われる。
碑の周りには阿蘇鉄矢氏の生涯をイラスト付きで分かりやすく紹介している。
同じ敷地内にはゴーカート場やカフェもあり。
興味がある人は是非一度訪れてみて欲しい。


川内市街地の遠景
川内のシンボル川内川も一望できる。


新田神社のある神亀山方面。
場所
↑「阿蘇鉄矢」墓塔のある段原共同墓地。
同敷地内には平佐北郷家家臣の方々が眠っている。
↑阿蘇鉄矢頌徳碑のある寺山
駐車場有
【参考資料】
・川内郷土史 下巻
・治水と文化財の調整に関する研究