串木野麓概略
・現状
【武家門】2基(1基は近年建て替えか)
【武家門石垣】3・4家程
【地頭仮屋】串木野城外曲輪(現在は住宅街)
【串木野麓】
地頭仮屋を中心として「西之口郷」「内村郷」「麓郷」「原郷」の四つの郷があり、麓四郷と呼ばれていた。
島津重豪の積極開化政策で、安永二年(1773)鹿児島城下に造士館と演武館を創設した。串木野でも間もなく当地頭仮屋屋敷に手習い学問所と剣術稽古所を創設した。明治二年最後の地頭「坂木六郎」は、ここに達徳館を設け新時代の教育の基礎を築いた。これが鹿児島第三十四郷校となり串木野小学校へと進展した。
※現地掲示板より
武家門
入来邸(奥田家)
串木野麓の象徴 入来邸武家門と石垣
凄い立派な武家門
現在も奥田家の方が居住し武家門・武家屋敷共に後世へ残す為にしっかり守って下さっている。
住人がいる場合はお願いすれば住宅も見学させていただける。
武家屋敷も江戸末期造で、明治時代には西郷隆盛も訪れた事もあるそうだ。
旧入来邸は本市における幕末期頃の武家屋敷の基本となるものであり、大変貴重な歴史的文化財である。また庭木として植えられているイヌマキ(犬槇)・ゴヨウマツ(五葉松)も江戸時代頃と考えられ市で最も古いものである。
※現地説明板より
石垣
入来邸石垣
所々ブロック塀で作られているが近年補修されているものだろう。
写真の石垣は地頭仮屋跡下の壁面にあり、串木野城外曲輪の一部である。
(現在の石垣は明治三十年前後に築かれた)
ちなみに地頭仮屋跡の広さは約三十三アール(三反三畝)ある。
※現地説明板より
長谷場純孝生誕の地
長谷場純孝は、安政元年(1854)、串木野麓に生まれ、小さい時から文武両道に秀でていた。
明治四年(1871)に上京、西郷隆盛や川路利良と知り合った。西郷から「致堂」の号を与えられたのはこの頃である。明治六年、征韓論に敗れた西郷が鹿児島に帰ると、明治七年(1874)二十一歳の時に西郷を慕って串木野に帰り私学校に入った。明治十年(1877)西南の役の時には二番大隊一番小隊に入り、田原坂で右足を負傷し串木野に帰ってきた後、島平浦警察分署を襲撃したが、捕らえられ富山監獄に入所した。明治十三年(1880)二十七歳の時に出所した後、板垣退助の自由民権思想に共鳴し、頭山満等と九州改進党を組織して国会開設に備えた。明治十八年(1885)三十二歳の時に県議会議員となり、鹿児島~熊本間の国道等の建設に貢献した。
明治二十三年(1890)三十七歳の時に衆議院議員に初当選した。その後、二十五年間国会議員を務め、その間、衆議院議長を三回、文部大臣を一回務めた。
大正三年(1914)六十一歳の時にシーメンス事件で紛糾する国会に乞われて、病を押して議長になったが、議会半ばでなくなった。
串木野駅舎横に、鉄道国有化と鹿児島本線敷設の功績を讃え、胸像が建っている。
※現地説明板より
大中公の廟
大中公の廟は、島津四兄弟の末弟「島津家久」公が元亀元年(1571)串木野と隈之城の地頭を兼務したとき、その翌年6月22日、父「島津貴久」公の御霊を迎えたものである。また、良福寺に位牌を迎え、家久は法要を怠らなかった。藩政時代、良福寺は串木野郷の菩提寺であった。
「大中公」とは、「島津貴久」公の法名「南林寺殿 大中良等庵主」からとったものである。
昭和42年3月24日に串木野市の文化財に指定され、上名4916番2の場所にあったが、南九州西回り自動車道建設工事に伴い上名4788番1に移設された。
※現地説明板より
串木野氏の墓
串木野氏は、薩摩郡地頭「平忠直」の子、串木野三郎忠道に始まり2代「忠行」3代「忠秀」4代「平次郎」5代「忠秋」と5代120年余り続いたが、興国3年(1342)串木野城の戦いで「島津貞久」に敗れ、知覧へ落ちた。
現在立っている宝塔は、発見された串木野氏の宝塔の寄せ集めであるが、5代「忠秋」のものと推定されている。
※現地説明板より
古老の話では、明治初年頃までは、大堂庵の墓地に五輪塔の墓があったという。しかし、第二次世界大戦の頃は見当たらなかった。その後、串木野氏の墓がないのはおかしいということで、昭和37年に調査したところ、大堂庵の墓地の付近や畑の石垣の間に、五輪塔の各部や破片などが発見された。
現在、建っている串木野氏の墓は、その時発見された各部(串木野三郎忠道以下代々の墓)を寄せ集めて建てたものである。
※観光案内所HPより
ちなみに、同墓地内には串木野郷武家の墓塔が並び薩摩の先人が眠っている。
場所
地図でマーカーが指している場所の前に観光用駐車場有
それぞれの場所は少し離れているので、歩きやすい靴で行くのがオススメ!