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【管理人】誠

【先祖】
桓武平氏高望流士族
・薩摩焼の一 「何家」
柚木崎丹後守正家

歴史関連の活動(薩摩ISHIN祭(島津義弘公顕彰活動)ひらさ・北郷桜まつり)を始めてから
自分のルーツを調べはじめ「ご先祖からの縁」を感じることがあったので紹介する。

桓武平氏高望流士族

先祖の一つの家系は、島津薩州家の家臣だったという。
朝鮮出兵の際に島津忠辰が没し改易され薩州家は断絶。
その際私の先祖は浪人となり、豊臣領となった出水から島津領の西方へ移住。
新たに薩摩守に任ぜられた島津義弘公に郷士として登用された。
薩摩ISHIN祭の活動を始めた後に、島津義弘公に登用されていたことを知った。

何家

薩摩焼の始まりは朝鮮の役の際に島津義弘公が朝鮮の陶工を連れ帰った事に始まる。
串木野の島平に上陸した朝鮮陶工達のうち「卞芳仲」(べん・ほうちゅう)と「何芳珍」(か・ほうちん)は,帖佐の八日町,加治木の龍口坂ついで吉原にそれぞれ窯を築いたと言われるが,これらの窯跡は発見されていない。
鹿児島県HPより

江戸時代頃に焼き物が盛んだった地域にある先祖墓に「何芳圓」の名がある。
私の先祖に当たるが詳細は不明。
しかし、先祖から伝え聞いている話で、「我が家は肥前から来た」という話がある。
加治木から有田に修行に行った何芳工と何か関係がある可能性がある。

柚木崎丹後守正家

日向伊東氏家臣・日向国柚木崎城主
内山衆去川役人
槍の名主で「日州一の槍突き」と謳われた。

木崎原合戦に出陣し、島津方の釣り野伏に掛かり敗走する伊東軍の殿となって討ち死にした。
島津義弘公との戦いには諸説ある。
【殿についての説】
粥餅田と呼ばれる地で肥田木玄斎と共に踏み止まり奮闘⇔正家一人とする史書もある
【最期に纏わる諸説】
①待ち伏せて弓で狙い討とうとした説(日州木崎原御合戦伝記)他
②殿による槍同士の一騎討ちだった説(三国名勝図会)他
③島津兵に囲まれて討たれたとする説(日向纂記)
④攻撃が外れた後義弘公に降伏を促されたが「二君に仕えず」と断って討たれた説(三国名勝図会)
⑤弓を投げ捨て義弘公に恭順すべく平伏したが、策ではないかと警戒した義弘公に槍で突き殺されたとする説(日州木崎原御合戦伝記)他
⇒その場合、義弘公が子孫を召し出したのは、恭順を示した者を討ち取った自戒の念からとされる。

【先祖】
柚木崎正家の子、「柚木崎平右衛門」は諸県郡穆佐郷(宮崎県東諸県郡高岡町)に居住。
その子「柚木崎正信」は島津義弘に仕え、穆佐郷下倉永村星崎門24石9斗を賜った。
後、飛松・丸目氏等と共に北郷三久に従い、諸県郡都城郷(宮崎県都城市)から
薩摩郡平佐郷天辰村(薩摩川内市平佐町天辰)に移住。

子孫は平佐北郷家家臣として、子孫権現宮祠菅・平佐皿山焼役人・北郷家高役等を歴任。
※参考資料「さつまの姓氏」より

ひらさ・北郷桜まつりで「北郷三久」公役を演じることが決まった後に、判明したことでまさか先祖が三久公の家臣だったとは…
義弘公にしろ三久公にしろ偶然と言えば偶然で、気にし過ぎかもしれないが、私はこの御縁を大切にしたい。

島津義弘公と北郷三久公

これを見てもらえれば分かる通り、島津義弘公・北郷三久公は先祖の殿であり、私が今ここにいる理由でもある。
お二人の殿がいなければ・登用されなければ、私の先祖が頑張って仕えなければ、私は存在しなかっただろう…
本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
さらにやりたい事に対して、こんなにも貴重な縁を頂いて頑張らない理由がない。
もっと色んな人に薩摩の歴史を知ってもらえるよう頑張ろう!

ちなみに…
島津義弘公の次男「島津久保」公と「北郷三久」公は同じ1573年生まれ。
さらに数々の合戦を義弘公と三久公は共に戦っていることから、親子に近い絆があったのではないか?と考えている。
平佐北郷家についての記事はコチラ

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