概要
高来小学校敷地一帯は、高城氏の菩提寺である信興寺跡です。信興寺は明治二年(1869)に廃寺となったとされていますが、この一角に東郷氏流高城氏の石塔群が残っています。
高城氏は、宝治二年(1248)に、関東から下って川薩地方に入り、地頭となった渋谷五族(高城・東郷・入来院・祁答院・鶴田)の一です。鎌倉末期から建武中期にかけて鎮西武家として大きな力を持っていましたが、南北朝中期を過ぎた頃から衰退し、応永期には島津氏の内紛に巻き込まれた後、所領を失いました。
その後、文明十七年(1485)東郷渋谷氏が高城へ進出してこれを手中に収め、「東郷重隆」(東郷氏十三代「東郷重信」の弟)が妹背城を居城として高城氏(たかじょう)を称しました。しかし、大隅・薩摩地方の大半を支配した島津氏には対抗できず、元亀元年(1570)、東郷氏十五代「東郷重尚(重治)」の時代に、所領を献じて島津十五代「島津貴久」に降伏した。
※現地説明板より
渋谷氏流高城氏
初代「高城重貞」が承久の乱で没し、定住したのは二代「高城重秀」で、武光氏に対抗し最初大川(阿久根市)に館を築き、三代「高城重郷」は1286年鎮西談義諸奉行四人中の一人に任じられ、四代「高城重康」は1336年多々良浜合戦の恩賞で足利尊氏から肥前国内で地頭職を貰った。五代「高城重雄」以降高(妹背)城(高城町)、水引城を本拠とした。十代「高城重珍」は1432年島津立久に高(妹背)城を攻略され討たれ、十一代「高城重頼」は水引城に移った。1485年「高城重頼」は、薩州家「島津国久」に水引城を攻略され、祁答院へ逃れ領主としては断絶した。その後十五代「高城重説」の時鹿児島城下へ移り渋谷氏流の高城氏は存続した。
※現地説明板より
※島津立久の生年が永享四年(1432)なので辻褄合わず。
渋谷氏流高城氏系図記事はこちら【妹背城(芋瀬・高城)】
東郷氏流高城氏
東郷氏第十三代「東郷重信」弟「東郷重隆」が高城を領し東郷氏流高城氏の租となる。
初代領主 高城 重隆
備前守
永正元年(1504)東郷重信に代わりて高城を領有し高城に居り高城氏を興す。
妻「入来院弾正少弼重豊入道以心」の女
二代領主 高城 重誠
備前守
東郷氏本宗東郷大和守重治(高城重誠の従兄弟)に追われ高城の地を失う。
妻「島津出羽守忠明」の女
三代当主 高城 重貞
左馬介
初代「高城重隆」二男 二代「高城重誠」弟
兄「高城重誠」の命により家督を継ぎ三代当主となる
妻「蒲生氏」
享禄四年(1531)六月四日 百次城(上野城・岩田ヶ城)永溝口にて討死
四代当主 高城 重弼
備前守
三代「高城重貞」に子が無かった為二代「高城重誠」二男「高城重弼」が跡を継ぐ。
妻「入来院弾正少弼重聡」の女
兄「大島忠奏」(二代重誠長男):島津義久公の命により外祖父島津忠明の後を継ぎ、大島出羽守と改称する。(母が島津忠明の娘)
五代当主 高城 重豊
下総守
三代「高城重貞」三男 四代「高城重弼」弟
後子孫連綿たり
遺構




渋谷氏流高城(たき)氏
東郷氏流高城(たかじょう)氏
現在この地に残っている石塔群は東郷氏流高城氏のものであり、渋谷氏流高城氏のものではない。
渋谷氏流高城氏の石塔群は未だ見つかっていない。
場所
駐車場:高城神社
高城神社から案内板通りに進むと2~3分程


