平佐北郷家墓所「長照山梁月寺跡」

寺院

平佐城

平佐北郷家墓所前梁月寺跡 現平佐城広場

長照山梁月寺

平佐北郷家

平佐北郷家始祖「北郷三久」

始祖「北郷三久」公墓塔と石屋

父「北郷時久」母「北郷忠孝娘」
天正元年(1573)三月十日生(新暦1573年4月11日生)
幼名「千代鶴丸」
名「宗次郎」「作左衛門」
官位「佐渡守」「加賀守」
法名「義山忠孝庵主」

初妻:「伊集院忠棟」の娘
継室:「島津歳久」の娘「花屋夫人」※数カ月のみか
後妻:「上井覚兼」の娘

島津家の墓塔は宝筐印塔が多いのに対し、北郷三久公の墓塔は五輪塔型。
そしてとても大きい(墓塔160~180㎝・石屋250㎝程度)。
北郷三久公以降は宝篋印塔型。

天正十四年(1586年)【13歳】 【豊後侵攻】豊後大友氏征伐「島津義弘」3万の軍勢として肥後路からの侵攻に従陣。「初陣」
※豊薩合戦の初戦、岡城支城「佐田常任・阿南勘解由之丞の守る高城攻め」か。
天正十四年十一月十一日 「北郷作左衛門(三久)」「相良新右衛門」平佐城普請の任につく。
天正十五年(1587年)【15歳】 「北郷三久」殿下への勤仕の為京都へ登る。(真田信繁のように秀吉の下で奉公する形か?※あくまでも可能性として)
北郷時久五男三久弟「北郷忠頼」関白秀吉川内泰平寺の陣営に人質として送られる。
天正十五年五月二十八日 秀吉、御朱印を以て「日向三股院 一千町」を与う。
天正十五年六月 「島津義久」上洛時、「北郷三久」随従す。
天正十八年(1590年)二月二十八日【18歳】 豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣。島津義弘嫡男「島津久保」の士、十五騎と共に従軍(従兵四百五十人)。二月三日都城発 九月七日京都へ戻る。
文禄二年(1593年)九月八日【21歳】 同じ歳で行動を共にすることが多かった島津義弘嫡男「島津久保」が朝鮮在陣中に病死(享年21歳)
文禄二年(1593年)十月 朝鮮出兵に従い渡海滞陣す。
文禄三年(1594年)十二月十四日【22歳】 兄「北郷忠虎」が朝鮮で病死(享年39歳) 
文禄四年(1595年)五月【23歳】 北郷本家で父「北郷時久」の薩摩祁答院への転封により、自らの所領である三股院一千町を「島津義久」へ献上。
文禄四年(1595年)六月十一日 先妻(伊集院忠棟娘)が逝去。
文禄四年七月五日 嫡子「長千代丸」5歳と幼少の為「島津義久」「島津義弘」連署により北郷家当主名代の證書を賜る。 ※都城島津史誌では正式に家督を継いでいる。
文禄四年十月七日 三股院の替地として、薩摩郡「平佐・天辰・宮里・高江」入来院「塔之原」祁答院「久富木村」市来「川上村」合計「一万一千五百四十三石二斗五升八合六才」を賜う。
慶長元年(1596年)二月二十一日
 「北郷三久」、「島津義弘」「島津忠恒」親子に従い朝鮮へ渡海。
慶長二年(1597年)八月十二日~十五日【24歳】 【南原城の戦い】大将「宇喜多秀家」の島津隊は、「島津義弘」「島津忠恒」が一万人の軍勢を動員。
「北郷三久」鉄砲で騎馬武者を討つ。
慶長三年(1598年)四月二十九日【25歳】 明渡使を遣わして日本軍の帰還を含め、「北郷三久」「種子島久時」応接す。
慶長三年九月二十二日 「北郷三久」「伊集院忠真」の軍勢、朝鮮軍と対峙するも昆陽城から「島津義弘」率いる島津本体と合流すべく泗川新城へ退却。
慶長三年十月一日 【泗川の戦い】島津勢一斉に出撃し、明・朝鮮軍20万を撃破。
・「朝鮮泗川陣諸衆鎧毛色記」(都城島津邸蔵・江戸時代後期)より
北郷三久「赤糸ニテ候泗川合戦専赤糸ニテ候黒糸の具足モ有之タルカト覚申候」とある。
※三久公は赤糸の甲冑と黒糸の甲冑を有していたことが記されている。黒糸の甲冑は川内歴史資料館蔵の物か。
・「泗川表討捕首注文」(鹿児島県立図書館蔵・薩摩旧記雑録後編)より
北郷作左衛門(三久)「四千百十六」人を討ち取ったことが記されている。
・本藩人物誌「北郷三久」より
「義弘公御奇計ヲ似被召崩追打也三久モ諸軍同前打出追打之処三久明人ト馬上ニテ組合両馬之間二落候ヲ 忠恒公被遊御覧御馬ヲ被駈寄下リ立候テ右之敵ヲ御打果サレ其首ヲ三久家臣東野又兵衛二持可申由被仰付候依之三久辛キ命ヲ助リ又々馬二打乗追打候此時三久赤糸威之鎧着用ニテ候」
【訳】義弘公策を用いて相手を崩し、更に追い討ちをかける。三久も同時に追い討ちに打って出たところ、明人と馬上にて組合になり両馬の間に落ちた所、忠恒公が馬にて駆け寄り下馬しこの敵を打ち果たした。この首を三久家臣東野又兵衛に取る様に申しつけた。三久は辛くも命が助かったそばから又馬に乗り追い打ちを掛けた。この時三久は赤糸威の鎧を着用していた。

慶長三年十一月十八日 【露梁津の海戦】島津軍、明・朝鮮水軍を撃破。
慶長三年十一月二十一日
 唐島(巨済島)を出帆、十二月十日博多帰順。「北郷三久」慶長の役の項により、高千石を賜う。
慶長四年(1599年)三月【26歳】 【庄内の乱】「北郷忠能」元服し家督を継ぎ出陣するが、実務は「北郷三久」が担い奮戦、北郷忠能は旧領都城に復す。
慶長五年(1600年)五月四日【27歳】 征韓役の恩賞として日向庄内の「下水流・有水」千石を加増。
慶長六年(1601年)一月二十八日 庄内役の恩賞として、日向諸県郡「志和地」千石を加増。
慶長七年(1602年)三月十七日【29歳】「島津家久(忠恒)」江戸行きに御供す。
元和元年(1615年)【42歳】 【大阪夏の陣】「北郷三久」家臣「二百六十人」を率いて出陣。この年「加賀守」と改める。平佐に若宮八幡(兼喜神社)を創建。
元和六年(1621年)【48歳】 享年四十八歳 法名「義山忠孝庵主」 平佐梁月寺に眠る。
              「河野四郎左衛門」「竹下次郎左衛門」殉死
              「島津義久」「島津義弘」「島津家久(忠恒)」に仕えた功により「一万三千五百石余」となる。

江戸時代の平佐北郷家当主

平佐北郷家墓地入り口

二代領主 北郷 久加(ひさます) 1604~1680

三代領主 北郷 久精(ひさきよ) 1625~1679

五代領主 北郷 久嘉(ひさよし)(頼常) 1675~1723

六代領主 北郷 久英(ひさてる) 1715~1724

七代領主 北郷 久達(ひさみち) 1696~1746

平佐北郷家 江戸前期の当主が眠る 島津一門の中でも圧巻

八代領主 北郷 久伝(ひさちか) 1731~1770

九代領主 北郷 久陣(ひさのぶ) 1735~1793

十代領主 北郷 久珉(ひさたみ)(久鏜) 1762~1850

十一代領主 北郷 久敬(ひさたか) 1789~1839

十二代領主 北郷 久新(ひさよし) 1805~1851

十三代領主 北郷 久信(ひさのぶ) 1831~1887

十四代当主 北郷 信麿(のぶまろ) 1876~1918

十五代当主 北郷 光久(みつひさ) 1918~1993

平佐北郷家当主8代目以降の墓塔が1段上にある
平佐北郷家8代~15代が眠る
平佐北郷家12代目が眠る最上段
最上段12代目当主のお墓の後方にある
平佐北郷家13代当主「北郷久信」公の墓塔
寄進された塔に平佐北郷家家臣団の名が刻まれている

平佐北郷家家紋

四代北郷忠昭墓塔石屋の「六ツ丁子」
五代北郷久嘉墓塔石屋の「角丁子」
平佐北郷家「角丁子」紋

平佐北郷家家臣の家にはこれらの家紋(角丁子以外)を拝領している家もある。

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