【名前】龍游山寿昌寺跡
【場所】入来郷 薩摩川内市入来町副田
【建立】創建:肥後国水上山万寿寺末臨済宗
後:福昌寺末曹洞宗へ改宗
神子禅師
宝治年間(一二四七年~四八年)創建
※薩摩旧跡巡礼rinzo様のサイトより参考
渋谷氏
桓武平氏秩父党の流れを汲む渋谷氏の一族
鎌倉時代「渋谷光重」が宝治元年(1247)の宝治合戦の功により、薩摩国に多くの所領を得た
長男「渋谷(舟木)重直」相模国渋谷荘の所領⇒相模渋谷氏
次男「渋谷(早川)実重」薩摩国東郷別府⇒東郷氏
三男「渋谷(吉岡)重保」薩摩国祁答院⇒祁答院氏
四男「渋谷(大谷)重茂(重諸)」薩摩国鶴田⇒鶴田氏
五男「渋谷(曽司)定心」薩摩国入来院⇒入来院氏
六男「渋谷(落合)重定」薩摩国高城⇒高城氏
光重の子・又は孫が宝治二年(1248)に薩摩に移住した
なお最初からそれぞれ地名を称した訳では無く、改姓した具体的な年は不明
系図上は領地を分与された光重の子らを初代に数えている。
入来院家墓地
お石塔は、入来院領主家代々の墓地のことで当初、入来町元村の諏訪神社前にあり「天下ヶ山」と呼ばれていました。それを、寛文六年(1666)にこの地にあった寺院(入来院家の菩提寺である寿昌寺)に移し、歴代の寄せ墓として造立した。
ここにある大型で豪華な祠墓塔は、いずれも江戸時代のもので、最古の石塔は入来院二十二代「入来院重矩」の享保二十年(1735)のものになる。
近世期における入来院氏は、薩摩藩主島津氏の一門家として重視され、明治維新に至る。
墓地柵の外には、中世期の領主供養塔と寿昌寺の歴代住職の墓塔があり、その他には人形型自然石の、
不動岩、座禅石、経塚石塔、享禄四年(1531)造立の板碑などがある。
※現地説明板より
入来院家初代「入来院定心」夫婦墓 1666新造
入来院第十五代当主「入来院重時」夫婦墓 1600没
関ヶ原合戦にて、大将である「島津義弘」らを見失い、追手の手に掛かり討ち死
歴代住職お石塔
歴代住職墓地
入来院家墓地の山手にあり、ひっそりと佇んでいる
寿昌寺の仁王像
仁王は釈迦に仕え仏法やその聖域(寺院や仏壇)を守護する執金剛神が阿形・吽形二体に分化したもので、「二王」とも呼ばれています。
また裙(裳)を腰に纏うだけの上半身裸形で、筋骨隆々とした姿で表されることから「金剛力士」ともいわれます。
この仁王像は下半身がありません。
ある人が切り取って石臼を作った為で、その人は後に仏罰を受け歩けなくなったそうです。
製作年は不明ですが、江戸時代初期のものではないかと言われています。
寿昌寺は、入来院氏の菩提寺であり領内随一の寺院として明治維新の廃仏毀釈まで尊崇されました。
※現地説明板より
戦死者の慰霊碑もある
隣接する墓地には入来郷士の先祖が眠り、家名をみると入来院家の家臣家や分家筋の家々が多く家紋も非常に見応えがある
見学は節度をもっておこないましょう!
場所
駐車場:墓地横に広い駐車場があるのでそこに停めさせてもらうと良いだろう