「町田久倍」概要
父「町田久徳」母「集院刑部少輔久通(盈)娘」
生誕「天文22年」(1553)?
通称「助太郎」
名「久倍」「久増」 薩陽武鑑「久信」
官位「伊賀守」「出羽守」
法名「惟仙宗逢居士」
妻「高崎能宗の娘」
嫡子「忠綱」左京亮 朝鮮卒(慶長の役)
庶子「久幸」通称「少兵衛」図書頭 御家老 町田氏家督
島津家の墓塔らしく宝篋印塔型だが、法名を刻む塔身部分が無くなっていると思われる。
法名の惟仙宗逢居士は本姓の惟宗姓を用いた法名?


戦歴
【永禄十年十一月(1567)】
「島津貴久」が伊東氏を討つと称して出陣したが、反転西進し菱刈氏の馬越城を攻撃。
湯之尾城:喜入季久・比志島義基
横川城:北村衆・溝辺衆・踊(牧園)衆
大口城:伊集院衆・伊作衆・川辺衆
町田久倍は大口城攻めの伊集院勢にあったと思われる。
この戦にて「有屋田源四郎(屋田源四郎?・有田源四郎?)」と槍を合わせ討ち取っている。
※その槍は市山の永福寺にあったが後に家蔵としている。
【永禄十三年(1570)】
菱刈征伐の功により市山地頭に任ぜられる。
【天正六年(1578)】「島津義久御使役」
耳川合戦御供 功有
※詳細不明
【天正九年(1581)】「島津義久老中」
水俣在陣
伊集院,出水,阿久根,市来地頭に任ぜられる。
【天正十二年(1584)】
九月「島津忠平(義弘)」に従い熊本出陣。
【天正十三年(1585)】
「島津義久」の命により「島津義弘」三男「島津忠恒」元服の理髪役を務める。
【天正十四年(1586)】
筑紫氏征伐:「島津忠長」「伊集院忠棟」と共に筑後に
七月六日 鷹取城攻略 ※龍造寺隆信を討ち取った猛将「川上忠堅」討死
? 日向山城攻略?
七月十日 「筑紫広門」居城 勝尾城 攻略
十月二十一日 「島津義弘」に従い肥後阿蘇郡高森町野尻に至り
十月二十二日 高城を攻略 以後豊後南郡の諸城を次々攻略
【天正十五年(1587)】
「島津征久」に従い、「新納忠元」「伊集院久春」らと日田から筑後に向かったが
三月十二日 湯嶽で秀吉の軍と衝突も退却
四月十六日 八代城入城
四月二十日 人吉在陣
日時不明 ⇒大口⇒伊集院へ帰城
五月三日以降 「喜入季久」「伊集院久治」とわずか70余人と共に、当主「島津義久」に随行して「豊臣秀吉」が在陣する泰平寺に向かう。
この時軍衆達は既にそれぞれ各自の郷里に引き上げてしまい、義久の駕籠を担ぐ人夫にも事欠く状態であった。
また義久公が剃髪した雪窓院は伊集院であり、久倍が地頭であった為、川内泰平寺までの警護他は町田久倍が指揮をした。
この時当主島津義久,他老中らと共に剃髪し「存松」と名乗りを変えている。
久倍の子、「町田忠綱」「町田久幸」も御供している。
六月十五日 「島津義久」と共に京都へ出立 博多で秀吉に謁す。
※亀寿姫は人質として一足先に出立している。
六月二十九日 下関にて亀寿姫・島津久保らと会す。
七月十日 「島津義久」と共に関白に挨拶した後、帰国の途につく。
※町田久倍は島津家からの人質目付役として京に滞在する期間があった。
【天正十九年(1591)】
五月四日 「島津義久」の命により、鹿児島にて「平田光宗・新納忠元・川上肱枕・本田正親・鎌田政近・税所篤辰・山田有信・新納長住・伊地知道増」らと義久名護屋在陣中の行政施策について談合。
【天正二十年(1592)】
七月十八日「島津歳久」海路からの討手の将を命ぜられる。
同年 町田久倍は文禄検地の際に発給文書に多く名が見られることから、この検知を中心的な役割として担っていたことが伺える。
また久倍はこの頃島津義久に三カ条の誓詞を送っているが、これは細川幽斎が太閤の厳命を奉じて当国に滞在している間、古くからある決まりを廃し新法を施行させた事により細川幽斎に、へつらい得をしようとしたり、古くからの忠臣をけなす者が出て来た為である。
この頃久倍は伊作地頭も兼補されている。
【文禄四年(1595)】
石谷から島津義久城代として大口へ所領替えとなるが、京から離れられず弟の「町田源左衛門久政」が地頭代として大口に入る。
【慶長二年(1597)】
町田久倍の弟、町田久政が大口から地頭代として兵を率いて朝鮮に渡る。
【慶長三年(1598)】
町田久政、蛮戦破れ(慶長の役撤退戦)において討死。
島津義弘、町田久政の勲功として、久政の子「町田久則」に百石を与える。
町田久則:二代藩主「島津光久」家老
町田久倍京より帰薩
【慶長四年(1599)】
一月 年明けに大口城へ入る。
六月 【庄内の乱】町田久幸(町田久倍二男)、大口衆を率いて「伊集院源次郎忠真」の山田城を攻め戦功を立てた。
※この時町田久倍は大口城にあったはずだが、老齢の為か子の久幸が大口の兵を率いて出陣している。
十二月 大口城から大阪城へ移る。
【慶長五年(1600)】
八月初旬 病療養の為大口へ向けて大阪を出立。
八月二十八日 播州明石にて没す。遺骸を火葬に付し遺骨を大口の市山永福寺に埋葬。

場所
場所:鹿児島県伊佐市菱刈市山 永福寺跡
駐車場:付近に駐車場が無い為、入り口に停めて迅速に見学する事をオススメ
参考資料
「本藩人物志 巻之八」
「薩陽武鑑」
「松本町史」
「島津四兄弟の九州統一選」新名一仁 著

