平佐城
薩摩川内市の主要駅、川内駅から川内商工高校がある地までが平佐城と言われている。
この地はかつて、「島津義久」と「豊臣秀吉」の軍が激突した城
【築城】薩摩太郎忠友
【主な城主】薩摩平氏・総州島津氏・入来院氏・島津氏(本宗)・平佐北郷氏(島津氏分家)
【別名】諏訪之尾城・庵ノ城(平佐城内曲輪の一)・内城(平佐城東方の支城)
※平佐城の城域は埋蔵文化財情報データベースがわかりやすい。
【城域】周囲約2km 高さ約12.2m
「本丸」竈門神社付近「二之丸」平佐西小学校北付近「三之丸」川内駅付近

天正十五年 平佐城攻防戦
【島津軍】(総勢300)
平佐城主「桂忠昉」勢 300
⇒諏訪山(川内商工高校)・本丸(竈門神社)
※それぞれの数は不明
【豊臣軍】(総勢7000~9000とも)※数は諸説有
総大将「小西行長」勢2000:城北田比良方面から(中ノ原公民館の地)
「脇坂安治」勢3000:大手口井穴方面から(日暮丘北方平佐川の辺りか)
「九鬼嘉隆」勢3500:垂之口(樋之口)方面から(横馬場辺り?)
他
Aコープ川内店北方の喜入高台
九州電気保安協会川内事業所付近
※数は不明
天正十五年(1587年)四月二十八日
両軍は激突、兵数差実に30倍近くながら桂忠昉は奮闘しこれを防ぐ。
⇒平佐衆だけでなく、入来院衆や隈之城衆、百姓から乙名(百姓の長,後の名頭・名主)もこの戦に参戦していた事が記録に残っている。
翌二十九日に「島津義久」の命により降伏
この平佐城攻防戦は豊臣秀吉到着以前のことであった。
※豊臣秀吉は五月三日泰平寺入りしている。

三国名勝図会
なお三国名勝図会平佐の項には平佐城合戦について下記記述がある。
・平佐城合戦について
天正十五年、豊関白秀吉、親ら大軍を師ひて西侵し、船に乗て肥後佐敷より、薩摩出水に至り、四月二十五日、千臺川の海口水引京泊津に入り、流に遡て師を高江猫嶽に駐め、移て水引泰平寺に次す、遂に定て行臺とし、列候群師営を敷里に連ね、関白これに至るや、沿道風を望んで降る、濁り當城主桂神祇忠昉、天性倜儅にして、膽界絕人、城を閉て固く守る、城兵僅に三百許、二十八日、小西摂津守行長、脇坂中務少輔安治、九鬼大隅守嘉隆、大兵を率い来て當城を囲み、衆を鼓して齊しく攻む、城兵捍禦甚た力め、敵軍死傷多し、然れとも敵多兵なれは、攻撃盆急なり、忠昉は牙城に居て、桑門を會し、宴樂喜慰して出ず、兵卒走来り告て日、敵軍競ひ進み、城兵既に劣る、城中騒動して、敗れんこと須更に在り、忠昉従容として問て日、谷山紀伊、宇都和泉、己に戦死せる敗、卒が云二人城壁に於て勇を振ふて防戦す、忠昉日、二人未だ死せずんば、敵を拒くに足れり、自若として酒を飲む、是に於て城中晏如として、衆心寧一なり、かくて城兵屢突出して奮闘す、九鬼嘉隆が麾下、伊勢國の某と呼て戦ふ者あり、膂力絶倫能く當る者なし、高木帯刀刃を接し遂にこれを斬殺す、我兵城に入るに及んで、敵追ひ遍り、共に城に登らんとす、谷山次郎右衛門、春田主水、阿久根權介等善く戦ひ、敵を退け軍を全ふして帰る、此日辰の上刻より申の下刻に及び、敵首を獲ること三百余にして、城愈堅し、是より敵敢て攻めず、時に邦君関白と成く、故に人をして忠昉を諭し、城を下らしむ、忠昉君恩を報するに必死を分とし、関白に屈するの意なしといへども、君命を重し、五月二日泰平寺に至て関白に謁す、関白、忠昉が忠勇を感じ宝壽の短刀を賜ふ、二十八日、関白泰平寺を発し當城に入り給へり
・藤崎,井穴
平佐城の南麓、通路東より西に開く、今是を藤崎通路と云、叉城の西麓、即ち藤崎通路の西、直に井穴なり、前文九鬼嘉隆、平佐城をを攻るや、城の卒将宇都和泉、谷山紀伊藤崎に激へ闘ふ、和泉軽卒を率し、間道を経て敵の後、井穴に出、挟んで撃んとす、時に敵の後軍進み至り、合戦ありし所なり。
・田平
平佐城を距ること北三町許、前條同時小西行長後援として此処に兵を屯せり。

女性の活躍
城主「桂忠昉」夫人は鎧を着て多数の臣を指揮して搦手を守り、秀吉軍が寄せると、灰の目潰しを用い、敵が付近の沼田で進退の自由を奪われるや、城門を開いて自ら出撃し、是を討ち取ったという。

新田神社
関白豊臣秀吉の水軍先鋒隊は、九品寺を本営とし軍兵共は掠奪暴行を意のままにし、新田神社の宝物を略奪しようとした為、憲春法印はこの神社が瓊瓊杵尊を祀る天皇家の宗廟であることを記、新田神社を襲う事を戒めた。
この札に豊臣方諸将が連署し制札を掲げ、新田神社に対する乱暴狼藉を固く禁止した。(禁制礼:国指定重要文化財)
泰平寺
泰平寺住持「宥印法印」は豊臣秀吉の使者が、
「泰平寺を本営とする為、速やかに立ち退き事」
と勧告してきたのに対し、毅然として
「愚僧は、当寺の住持なれば寺と存亡を共にする覚悟である為、寺を明け渡すつもりはない」と断った。
これを伝え聞いた豊臣秀吉は大いに感心して、改めて礼を尽くして申し入れた。
宥印法印はこれを受け入れ退去する代わりに、退去先を準備するようお願いした所、中郷の宅満寺を与えられた。
宥印法印は退去後も、毎朝宅満寺から泰平寺に行きお経を読み上げる為に通った。
豊臣軍の中にあっても兵士達を全く恐れる様子が無かったので、その毅然たる態度に皆関心したという。
その後の和睦の際には仲介役を務め、和睦石が泰平寺横の公園内に残されている。
遺構
昭和43年に宅地造成の為、本丸から二之丸・三之丸部分が掘削された為、現在平佐城の遺構はほとんど確認できないのが現状である。
南方神社付近の諏訪之尾城、川内商工高校の地がわずかにその様子を残すのみ。
しかし僅かながらにその様子を見る事ができるという事でもある。
オススメはコスモス平佐店様横、南方神社付近から平佐北郷家墓地、川内商工高校一帯は城の高さや断崖を部分的に確認できる。

場所
上記地図は平佐城本丸跡と言われる竈門神社の場所。
西は川内駅、東は川内商工高校まで
駐車場:南方神社(コスモス平佐店様横)駐車場
上記駐車場に停め神社や高校方面を見ると、城の往時を想像しやすいだろう。
日暮丘にある南方神社からであれば平佐城の遠景を確認しやすい。
参考記事:平佐 南方神社
参考文献
・鹿児島県史料 旧記雑録拾遺地誌備考三
・三国名勝図会 六十巻
・千台 第16号
・平佐の歴史
・日本城郭全集 第15
・日本城郭大系 第18巻
・せんだい:郷土史料
・川内市史 上巻

